熱海陽和洞とは

熱海陽和洞は三菱第四代社長岩崎小彌太(1879~1945)の冬の山荘として1936(昭和11)年に建てられ、小彌太の数ある別邸のなかで最も愛されたといわれる邸宅です。

曾禰中條建築事務所の中條精一郎設計による洋館と、京都の作庭家小川治兵衛の設計による庭園からなりたち、小彌太が入口にある隧道を祖母美和の大磯別邸の隧道の名『陽和洞』に倣い命名したことから、別邸の総称として『熱海陽和洞』と呼ぶようになりました。

1945(昭和20)年5月の東京大空襲により鳥居坂本邸が焼失。小彌太は陽和洞に住まいを移しますが、戦後の財閥解体要求への対応の激務により体調が悪化し同年12月に逝去。夫人・孝子は小彌太没後も独りで住まわれました。

cloud

熱海別邸の建築

「ここだ、ここだ」
小彌太は海の見える高台に別邸を構えることを望み、その地を求め自ら道なき山坂を登り、ふと眼下に熱海の海が広がる山上に到った時、思わずこう叫びこの地に別邸を建てることを決めました。
のちに中條精一郎が「よくこんなよい場所を探し当てましたね」と言うと、小彌太は「君より家を建てた苦労は積んでいるからね」と微笑んで答えました。※1
敷地約37,000坪の建築工事は、1933(昭和8)年6月山を切り拓くことから始まり、1936(昭和11)年9月末に漸く竣工しました。
小彌太の自由な発想を取り入れた洋館は、建築にも造詣が深い小彌太のこだわりを随所に見ることができます。

※1 岩崎小彌太伝 133頁

「2595」庭園に面する外壁の寄せ枡。
皇紀2595年(昭和10年)陽和洞棟上げの年が刻まれている。

熱海別邸と小彌太

熱海別邸で撮影された写真には、ロビーのソファーに深々と腰掛ける小彌太と久彌、サンルームで談笑する小彌太と久彌夫妻、加藤武男が写り、いずれも小彌太が別邸でくつろいでいる様子がうかがえます。
午後には夫人と共にティータイムをとってロビー横の居室で好みの紅茶を飲まれていたといわれています。※1
ダイニングルームに今も残る「隅切り角重ね三階菱」の家紋入り銀製茶器の風合いは長い時の流れを感じさせます。

※1 永野芳宣著「外圧に抗した男 岩崎小弥太の懺悔拒否」
  角川書店 63頁

熱海別邸と小彌太氏
熱海別邸と小彌太氏

1770年に製作されたイギリス製のホールクロック。15分毎に鳴るオルゴールはメヌエット、ガボットなど全12曲から選べ当時のままの音色を奏でる。

cloud

岩崎小彌太(1879∼1945)

小彌太は1879(明治12)年、彌之助の長男として東京で生まれました。
東京帝国大学法科大学に進んだ後、英国ケンブリッジ大学に留学、帰国後は26才の若さで三菱合資会社副社長に就任。36才で社長に就任すると事業の組織改革を行い、現在の三菱グループの基礎を築きました。しかし、戦後の財閥解体への対応中に病に倒れ、1945(昭和20)年12月、大動脈破裂により享年67才で永眠しました。

屈指の国際派であった小彌太は『稀代の経営者』とうたわれ、社員への訓示が要約された『三綱領』は、今でも三菱グループ共通の精神的資産として受け継がれています。

三綱領 「所期奉公」 「処事光明」 「立業貿易」

cloud

岩崎孝子(1888∼1975)

小彌太の夫人・孝子は薩摩藩島津久光の四男珍彦の三女として1888(明治21)年7月16日に生まれました。
小彌太がイギリス留学から帰国し、三菱合資会社副社長に就任した翌年に結婚。とても仲睦まじい夫婦であったといわれています。

曲線をモチーフにした家具が並ぶ夫人の間。鳥や鹿の模様が織られた淡い色調の壁紙や間接照明など、部屋全体に優しい雰囲気が漂う。

小彌太没後、孝子は独り熱海別邸で住まわれましたが、3年後に三菱合資会社元理事長の船田一雄へ宛てた手紙には、熱海別邸への帰宅が叶わなかった小彌太を偲び、夫の菩提を弔うために熱海に住み続けた思いが綴られています。

cloud